*** 何時のことだっただろうか 指切りをして約束したのは 何時のことだっただろうか また遊ぼうと約束したのは 緑色の酸素の中で、青葉の萌える木に登り 橙色した太陽が、紅色に染まるまで 紅色した太陽が、深い闇色に沈むまで 待ち惚けていたのは 一体何時のことだっただろうか…… *** 血飛沫が、もう半分ほど赤にそまった白壁を更に紅く塗装した。 畳はシドシドに濡れ、その重量を倍近くに増やしている。その上に落ちた体は、ベチャリと言った大凡畳の上に落ちた音ではない擬音を立てた。 五体がまともにそろっているものなどない屍が、まるで石ころのように転がっている、そんな部屋の中、黒髪を長く伸ばした若者は、ため息とも取れる息を吐いた。 「終わった……か」 殺戮現場の実行犯は、どす黒くそまった両手の血を、少しでも払うかのようなしぐさで手を振ると、そのまま部屋の襖を空け、縁側へと出た。 そこから中庭へと出ると、屋根へと飛び上がる。と、同時に、先ほど足に受けた傷口が鈍い痛みをもってその存在を主張した。 不意打ちを避け損ねて受けた傷は、それ自体は小さく、失血も多くは無かったが、それでも痛みを無視できるほど浅くは無くて。 微かな痛みを殺すように夜闇色の空気を一度胸いっぱいに吸い込み、そのままゆっくりと全て吐き出しながら、屋根の上に腰を下ろした。 黒い、しかし、完全な黒ではない、そんな夜空に、ぽっかりと月が浮かんでいる。星はない。耳を欹てれば、微かに虫の音が聞こえて、それ以外の音はなかった。 町外れにあるこの屋敷の異変に町民が気がつくのは、おそらくこの空の主役が交代する頃だろう。 少し、休むか。 口に出しはしなかったが、そう、胸中で呟いて、若者――つい最近、真庭忍軍十二頭領に抜擢されたばかりの真庭鳳凰は、かるく伸びをした。 任務は成功したのだ。怪我もそう深くはないから、少し休めば痛みも引くだろう。 そして、夜はこれからだ。幸いにも、時間はたっぷりある。 足の傷を撫でながら、月を見上げた。 今宵は十四夜、別の名で小望月と言ったか。明日、新円を描くであろう月は、誰かが爪の先で少し削ったような姿を晒している。 なんとなしに、酒か団子が欲しくなったが、それは贅沢と言うものだろう。 そもそも、血塗れの今の体で何を飲み食いしても、血の味しかしないことは、経験上分かりきっていることだ。 どうせ飲むなら美味い酒、どうせ食うなら美味い団子、である。異国の鬼じゃぁあるまいし、血の酒や血団子など、口にしたくも無い。 まぁ、そう感じるのはまだまだ自分がひよっこだからかもしれないが。 ふと、今日共に任務を言い付かった、己と同じく頭領になったばかりの男―真庭蟷螂の事が、頭に浮かんだ。 そうだ、帰ったらこの任務の報酬で、彼を誘って月見と洒落込むのも、いいかもしれない。明日は満月、月見にもってこいだろう。 しかし、その蟷螂との待ち合わせは、この月が頭上にくる頃と言ってあるので、まだまだ時間はある。もう暫く、一人で月を見ているのも、悪くは無い。 ホゥ…と息を吐き、空を仰ぐ。 血で濡れた手を、何となく月に翳してみた。 太陽にかざした時ほどではないが、視界の中の手は黒く陰り、その周りだけ縁取られているように青白く光っているようにみえる。 叢雲が、月を遮り、目の前が目に見えて暗くなった、その時だ。 「――――!」 微かな殺気を感じ、跳ね起きた。 辺りを注意深く見渡し、その素を探す。 「遅い」 ボソリと呟かれたような声が鼓膜に届いたと同時に、鳳凰はほとんど反射的に前方へと高く跳躍した。 先ほどまで座り込んでいた屋根の、丁度向かい側の別の屋根へと飛び移ったと同時に、肩口あたりから腰にかけて袈裟懸け上に一直線の痛みが走った。 痛みと、不意を突かれ反応の遅れた己の失態に顔を顰めながら、鳳凰は、先ほどまで己の居た屋根の上に居るであろう人物を見た。 暗闇の中、細部はよく分からないが、その影は、それだけでも奇妙な風体をしている。 背格好は、自分と似たり寄ったり。珍しい異国の服。顔の上半分を覆う仮面。両手に握られているのは、二振りの大小刀。殺気の殺し方といい、身のこなしといい、おそらく同業者だろう。 まずったな……と、鳳凰は軽く下唇をかみ締めた。 まだこんな奴が屋敷に居たとは。計算違いだ。もう全員始末したと思っていたのだが……油断した。 少し早くなった心拍数と連動するように、背中の傷がジクジクと痛みを増してくる。 緊張の糸を一度解いてしまったせいか、傷の痛みと共に任務の疲れも出てきているようだ。 逃げるのが得策だが、しかし、対峙している仮面の男はそう簡単に逃がしてくれるような雰囲気ではない。 「……ぬしは……」 「何者だ」と問う前に、仮面の男の姿が消える、と同時に背後からの殺気が鳳凰の感覚を突き刺した。 くっ…と小さく声を漏らすと、とっさにかがみこむように体制を低くし、その勢いで肩で側転をするように振り下ろされた刀を避ける。 その時、背中の傷が悲鳴を上げたが、この際は構ってはいられない。 とにかく、今は退路を考えなくては。 体制を建て直しながら距離をとろうと後ろへ下がる、が―― 「―背弄拳」 「――っ!!」 声と共に背後からの殺気が、一瞬、大きく膨らんだ、その瞬間、鳳凰は真横に飛んだ。 小さく舌打ちが聞こえたと共に、左手の感覚が中ほどから無くなった。 散血が吹き出したと共に、ボタッとついさっきまで己の体の一部であったモノが相手の足元へと落ちた。 痛みが、痛覚神経を駆け上り、一瞬頭の中が真っ白になる。 落ち着け、と、己に言い聞かす。 この程度の痛み、今まで何度と無く味わってきたではないか。 しかし、出血がこのまま続くと、流石にまずい。が、止血をする暇はどうやらなさそうだ。 早く逃げなくては。こんな状態では、嬲り殺されるのを待つだけだ。 感覚を研ぎ澄ませ、気配を探ると、相手はもう己の背後へと移動しているようだった。 振り向く事無く、前方へと飛ぶ。 失血のためか、着地したとき少しよろめきかけたが、どうにか踏ん張り、無様に倒れこむ事は回避する。 そうこうしている間にも、背後からはあの殺気が追いかけてくる。このままでは、逃げる意味が無い。 相手も手誰。待っていても隙はできそうに無い。どうにかしてソレを作らなくては。 せめて数瞬の隙があれば、殺すなり逃げるなり出来る――筈だ。 覚悟を決めるのに、一瞬はかからなかった。 わざと隙を見せるように立ち止まる。 背後から迫る殺気が大きく膨らんだ攻撃の瞬間――腕を動かす衣擦れの音から、それが日本刀の用途の中で尤も殺傷力のある突きだと確信した瞬間、鳳凰は踵を返すと、相手と向き直るような格好を取った。 無論、急所は外すようにはしたものの、威力までは殺しきれず、凶刃は鳳凰の腹を貫通する。 刃が柄近くまで突き通された、そこまで近づいて初めて、彼らは互いの顔を今度こそ細部まではっきりと認識することが出来た。 と、ほんの一瞬ではあるが、鳳凰の顔を認識した瞬間、相手の動きが止まった。 その隙を、鳳凰は見逃さない。 仮面に顔の上半分を隠した男の喉笛へと、手刀を振り落とす――!! 胴体と頭部が永遠の別れを告げる前に、仮面の男は我にかえったように、刀を手放すと、そのまま後ろへと飛んだ。 一瞬遅れて、彼の喉から血が洪水のように吹き出してくる。肉を切らせて骨を絶つ苦肉の策は、その三分の一ほど効果をしめしたようだ。 相手がその出血に気を取られている隙に、鳳凰はさらに畳み掛けるように隠し持っていた苦無を投擲した。 頭部にむけて正確に投げられた苦無を、仮面の男は紙一重で避ける。 紙一重、である。 苦無は、男の頭部に納まる事無く、額を切り裂き、仮面を剥ぎ取るのみで、その用途を終えた。 が、さらに隙を作るという思惑は、十分すぎるほどの効果を発揮したようだ。 仮面の男が気がついた次の瞬間には、屋根の上に鳳凰の姿はなかった。 「……… ―――?」 一人、残された男は、誰かの名を呟くと、それを振り払うように首を軽く振る。 「……否」 否定の言葉を口にしても、頭に残る、あの顔は、消えなかった。 一方、どうにか逃げ切った鳳凰は、仲間との待ち合わせ場所に程近い路地裏に独り、座り込んでいた。 止血が遅れたせいで、どうやら血を流しすぎてしまったらしい。 視界が微妙に霞かかり、気分が悪い。ひどい寒気がする。 死ぬかもな……と、それまで幾度と無く感じた死を意識する。 建物のせいでその面積の大半を切り取られた空には、先ほどと同じ月が浮かんでいる。 その光すら、徐々に見えなくなってきて。 己の名を呼ぶ声が、微かに聞こえた気がした。 その声の持ち主の姿が徐々に近づいてくる姿が霞かかった視界に入り込み、顔が大写しで映し出されて…… それでも、意識を手放す最後の瞬間、脳裏に浮かんだ顔は、死んだはずの「彼」の顔だった。 *** 何時のことだっただろうか 指きりをして約束したのは 何時のことだっただろうか また遊ぼうと約束したのは 閉じこめられた酸素の中で、格子の外の緑を眺め 橙色した太陽が、紅色に染まるまで 紅色した太陽が、深い闇色に沈むまで 外に出してと叫んだのは ……約束を破ってしまったのは 一体何時のことだっただろうか…… *** 「団子が食いたい」 「我慢しろ」 「酒が飲みたい」 「我慢しろ」 「月が見たい」 「我慢しろと言っているだろうが」 寝台に寝たままそういう鳳凰に、見舞いに来た蟷螂は呆れた面持ちでため息を吐いた。全く、片腕を無くし、腹に穴が空き、昨日一日意識が戻らなかった者の台詞とは思えない。 心配して損した、とまでは言わないが、それでももう少し、怪我人らしく愁傷にしていればいいのに、と思うのだ。それなのに、目の前のこの男は、意識が戻ったとたんに寝台から抜け出して縁側に居たりして、狂犬から大目玉を食らった、らしい。 ここに来る前にすれ違った狂犬が、「あの子のお見舞いに行くなら暫く動かないように見張ってて!」とプリプリと怒った調子で言っていたのだから、おそらくその通りなのだろう。 「満月が見たい」 「そうか。ならあと一月待て」 「? 呆けたか? 蟷螂。今夜ではないのか?」 「呆けてるのはぬしの頭だ。任務があったのは一昨日の夜だろう。昨日丸一日寝ていたと聞いていなかったのか」 「なら十六夜でいい。月が見たい」 「駄々っ子か、ぬしは。第一、今はまだ昼だ」 呆れを通り越してイラつきすら覚える問答に、蟷螂は「ならば」と起き上がろうとする鳳凰の額を掴むとそのまま枕の上へと押し戻した。傷に障ったらしく、なんとも言えぬ表情をしたその眉間に、人差し指を突き刺すように突きつける。 「…………」 「………わたしの忍術は、知っているな?」 「………………わかった。悪かった。もう動かんから、指をどけてくれ」 「ったく、ぬしという奴は…………腕はどうするつもりだ?」 「心配するな。我の忍術は、知っているだろう?」 「ふん……」 鼻を鳴らす蟷螂に、鳳凰は苦笑のような笑みを浮かべる。 それを、蟷螂はどこか不服そうににらみつけた。 「何だ? おとなしくすると言っているだろうが」 「別にそのことではない。が――…まぁいい」 「だから何がだ」 「――――」 しばし、だまって病床の鳳凰をみていた蟷螂だが、ややあってポツリ、と、ある単語を漏らした。 鳳凰の目が、丸くなる。 「……ぬしは意識を失う前、そう呟いた。人の名か?」 「……………まぁな」 「誰だ。真庭の者ではないだろう」 「死人の名だ。気にするな」 「……そうか」 そのまま、二人の間には沈黙が錘のようにしばらく沈殿していた。 サワサワと、梢の揺れる音が微かに耳に届く。 遠くの方で、里の子供の遊ぶ声が、ほんの微かに聞こえる。 かごの中のとりは いついつ 出やる 夜明けの ばんに つるとかめが すべった うしろのしょうめん だーれ 「……今夜、月がいい具合に昇れば、また来てやろう」 「?」 微かに聞こえる子供の声を聞きながら、沈殿していた沈黙を取り払ったのは蟷螂だった。 「酒やら団子やらは腹の傷が塞がるまで無理だが、月位なら、見せてやる」 「……すまんな」 ありがとう、と、礼を言うと、蟷螂は軽く微笑み、「そろそろ失礼する」と言って立ち上がった。 カラカラと襖の閉じる音を最後に、部屋はもう一度沈黙する。 人の気配が完全に消えたのを見計らい、鳳凰は軽くため息を吐いた。 どうやら想像していた以上に、この怪我は心身を共に摩滅していたらしい。万全の状態なら何の苦もない長さの会話なのに、どうにも疲れが出る。 夜に起こされるやもしれぬのだし、寝るか。と、鳳凰は口の中で呟くと、目を閉じた。 眠りの淵に落ちる直前、死んだはずの旧友の声が、記憶の奥底から聞こえた気がした。 その声が、あの夜に己の背後で聞いたモノと同じだと、気づいたときに、自然と頬の肉が動いたのを感じながら鳳凰は眠りについた。 |