『どうやら、私は狙われているらしい』 そう言うと、旦那様はため息を一つ、吐いた。 『旦那様、お逃げくださいませ。ここは私どもに任せ、お逃げくださいませ。』 お父さんがそういうと、旦那様は苦いものを食べた時みたいな顔をして、お父さんを、そして「あたし」を見る。 『しかし、お前にはこの子が居るだろう? そのお前を残して行くのは……』 『お気になさらずに。大丈夫です。』 お父さんはそう言うと、「あたし」を抱き寄せる。「あたし」を守るかのように。 『この子の身一つ位、私が守って見せます。ですが、残念ながら私如きでは、この場では旦那様を守りきる事は難しいでしょう。ですから…ここからお離れください。お逃げください』 「あたし」はその言葉を聴きながら、お父さんの顔をじっと見た。 お父さんは、「あたし」に気づくと、ニッコリと微笑んでくれる。 ソレを見て、「あたし」は安心する。あぁ、きっと、大丈夫。旦那様も、「あたし」も、絶対お父さんが守ってくれる。 『だが、何処に逃げよと言うのだ』 『お任せください、実は………』 「……へぇ〜…そうなんだ……」 まだ幼い幼女はそう言うと、閉じていた目を開けた。 幼女の体の露出部分には、まるで罪人の様に、隈なく刺青が施されてある。 柔らかそうな桜色の頬にさえも刻まれた、その黒い直線を少し歪めるように、邪悪そうな笑みを、彼女は浮かべる。 「んもぅ。そ〜んな所に逃げてるなんて、馬鹿ねん。それで逃げたつもりだったのかしら」 わざとらしく、少し口を尖らせるようにそういうと、幼女は腰掛けていた木の枝から地表へと飛び降りた。 彼女と同い年の一般の子供が同じ事をすれば、まず足が折れるか、下手をすれば死ぬかもしれない高さだ。 しかし、彼女は木の幹を、階段でも駆け下りるかのような調子で蹴りながら降り立った。 無論、骨を折るどころか、軽い捻挫をしている様子もない。 「まーったく、世話をかけさせるわねぇ。今回の標的ちゃんは。おかげでこーんな無価値な体を乗っ取る事になっちゃったじゃない」 そう、漏らす幼女の顔は、心底つまらなさそうだ。 幼女の名は――いや、幼女の体を乗っ取っている女の名は、真庭狂犬。 真庭忍軍十二頭領の重鎮にして、肉体を持たない、残留思念。 彼女は今、とある男の暗殺を請け負っている。 久々に来た、報酬のいい任務だ。それを任されたからには、万が一にも失敗は許されないだろう。 尤も、格別難易度が高い任務と言うわけでもなく、失敗したからといて彼女が罰せられる事はないだろうが、彼女としては、里の為、部下のため、念には念を入れたい。 現場調査や、標的が何処に居るのかなど、念入りに調べ、昨夜、乗り込んだのだが、何処からか己が狙われている事を察したのか、標的となっている男は雲隠れしていた。 教えられていた場に居たのは、男の使用人数名のみ。男が何処に逃げたのか、その痕跡は何も残されていなかった。 たった一つ、その場で手がかりになりそうだったのは……彼女が今乗っ取っている、この使用人の娘の記憶だった。 「駄目元で乗っ取ってみたけど、よかったわぁ〜。この体にちゃ〜んと記憶されてて」 クスクスと、狂犬は笑う。 しかし、その記憶の代償として、彼女はそれまで乗っ取っていた体を捨てなくてはならなかった。 前の体は、なかなか気に入っていただけに、多少残念ではあるが、任務の、引いては里の為だ。仕方が無い。 が、この体では、新しい強い体を見つけることは難しいだろう。 そう考えた狂犬は、他の忍者に新しい体の調達を頼み、こうして里の近くの森の中で引き出した記憶をゆっくりと吟味していた訳だ。 木から下りたあと、暫く歩いていた狂犬は、おもむろに一枚の葉を毟ると、その小さな手で船を折りだした。 新しい体に変えるまでは、この体で居るしかない。が、待つ間の暇つぶしをしようにも、この体力のない体では出来ることは限られている。 任務についての調査も全て済んでいるし、この体の記憶も粗方読み終わっている。 別に他にやることが全く無いわけではないが……折角の子供の体だ。童心に返ってみるのも、悪くは無い。 「久々ねぇ〜……何年ぶりかしら」 折り方を思い出しながらゆっくりと完成させた船を、狂犬は近くに流れる小川に浮かべる。 船は、クルクルと回りながらゆっくりと川を下っていった。 その様子を、狂犬はボンヤリと眺める。 本当に、何年、いや、何十年ぶりなのだろう。 まだ自分が生きてて、まだ幼かった頃は、修行の合間に毎日友人とこうして遊んでいたものだった。 笑って、泣いて、怒って、また笑って…… そうやって、一緒に育ってきた友人も、仲間も、誰一人としてもうこの世には居ないけれど。 手慰みに、もう一艘、今度は先ほどよりも早く折りあげると、先に流した船を追わせるように流す。 と、そのときだ。 「うっわ〜〜〜! すっげぇ!! みろよ! はっぱのふね!!」 「え、どこどこ!?」 川下で、幼い子供の声が響いた。 バシャバシャと川の中へ入っていく音に、狂犬は視点をそちらへと移した。 年の頃は、彼女が今乗っ取っている体とほぼ同じくらいの、ちいさな男の子が二人、狂犬が先ほど作り、流したばかりの船を捕まえようと川の中に入っている。 着ている着物は……真庭の里の物だ。 ここは大人から見れば里からそう離れてはいないが、あの位の年頃の子供が出てくるには少しばかり離れすぎている。 しかも、時間的に今は修行中にあたる時間帯だ。 ひょっとしたら、休みなのかもしれないとも思ったが、会話の中で「サボっておこられないかな?」「へいきだって!」とか何とか聞こえてくるということは、修行から逃げてきたと言う事だろう。 全く、最近の子ときたら。これは今度、お説教会でも開くべきかな? 「あ!!」 「ん?」 とか何とか、狂犬がアレコレ考えていた時だ。 二人のうち、黒髪を、天を突く様に立てた子供が、急に声を上げた。 もう一人の少し長めの髪を後ろで束ねた子供はそれに呼応するように振り返る。 そしてその声に顔を向けてしまった狂犬と、バッチリ目が合った。 「ひょっとして、コレ、おまえがつくったの!?」 「え、あ、あたし?」 「ちがうのか?」 この年の子供にしては素晴らしい瞬発力で、ほんの数瞬ですぐ隣にまで来た二人を、狂犬は交互に見る。 普段の狂犬なら、彼らがここに来るよりも早く、この場を去る事も出来ただろうが、今は事情が違う。 目の前の子供二人の体は、まだ未熟ながらも鍛えられており、対する今の狂犬の体は、脆弱すぎる使用人の女の子の体だ。 いくら狂犬の中に、数百年に渡る記憶があったとしても、この体ではほとんど何も出来ないに等しい。 「ま、まぁそうね。うん。あたしが作ったのよ?」 第一、特別コレといって逃げる理由もない。 笑ってそう答えた狂犬に、二人の少年は目を輝かせた。 「すっげぇ!! おれ、こんなのつくれねぇよ〜〜」 「なぁなぁ、もっとつくれるか? あと、おれにもつくりかたおしえてくれよ!」 「あ、ずりぃ!! おれもおれも!!」 「いいわよんv じゃ、まず、おっきめの葉っぱとってきてね」 子供らしい、好奇心いっぱいの瞳で騒ぐ二人を、狂犬は微笑ましそうに見る。 数分後、小川の川辺には、大きな葉を抱えるほど持ってきた二人に、あーでもないこーでもないと船の折り方を教える女の子の姿があった。 「できた!!」と自分の手で作り、水面に浮かべたばかりの船を見て声を上げて嬉しそうな顔をする二人の少年に請われ、狂犬はさらに色々な遊びを教えてやった。 「なぁ! あしたもここ、くるか? またいっしょにあそぼうぜ!!」 「え?」 もうそろそろ日も傾き始めた頃、「そろそろ帰る」と言い出した彼らの口からでた言葉に、狂犬は自分でも間の抜けた返事を返した。 「そうだよ!! おれたち、あしたもこのじかんにここにくるからさ」 「明日……」 「だめか?」 顔を覗き込むようにして、小首をかしげてそう問うてくる二人。 子供らしいその仕草に、つい、頬が緩む。 「いいわよ」 気がつけば、そう、返事をしてしまっていた。 *** 次の日、狂犬は軽くため息を吐き、昨日会った二人の子供と共に遊んだ小川に程近い木の幹に体を持たれかけるようにして立っていた。 昨日、夜遅くまで待ったが、新しい体は届かなかった。 普段であれば、文句の一つや二つ、言うところではあるが、今回は、少し違った。 (今日の約束、どうしよう) つい、口についてしまった返事ではあるが、それでも約束したことには変わりは無い。 何より、返事を聞いた時の二人の満面の笑みが、頭を離れない。 「ぜったいだぜ?」「ちこくするなよ」 二人はそう言うと、狂犬の手を取り、小指を絡ませたのだ。 両手の小指を取られ、目を瞬かせる狂犬の前で、二人は空いた手同士やはり小指を絡ませると、丁度輪を描いたような格好できゃはきゃはと笑いながら、「ゆびきりげんまん!」と歌ったのだ。 (出来れば、あと一日だけ――) 「待たせたな、狂犬」 「―――っ鳳凰……」 唐突に掛けられた声に、狂犬は驚いたように振り向いた。 そこに立っていたのは、長い黒髪を垂らしたまだ若い男――狂犬が新しい女武者の体を捜してきてくれるよう依頼した真庭鳳凰だった。 彼の背には、遠目から見ても十二分に鍛えられていると分かる女が、しっかりと鎖で拘束されて背負われていた。 アレが、新しい体だろう。 女を地面に降ろすと、鳳凰は狂犬と向き合う。 「すまぬ。少し遅くなったが……注文通り、捕らえてきたぞ」 狂犬は、その女の体を暫くじっと見つめていた。 黙りこくったままの狂犬を、不審に思ったのか、鳳凰は微かに首をかしげたようだ。 どちらかといえばかしましい部類にはいる狂犬である。そんな彼女が、本来ならなかなか手に入らないであろう強い肉体を前に、黙って何も手を出そうとしないのは、鳳凰にとって初めての光景だった。 ややあって、狂犬は言いにくそうに鳳凰を見上げた。 「……ねぇ、あと一日だけ、ううん、半日でいいからさ、この体でいちゃ、駄目?」 「………そうしたいのであれば、我に無理強いをする権利はないが……その体の何処がいいのだ?」 「いいところなんかないわよ。体力無いし、子供だし、攻撃力も防御力も、速さすらないし」 「なら、早急に変えた方が無難かと思うのだが……まだ任務を完遂していないのだろう?」 「……そうね」 でも、と、狂犬は言葉尻を濁らせる。 そんな狂犬を、鳳凰は心底不思議そうな面持ちで見ていた。 「我の捕らえてきたこの女では不服なら、もう一人捕らえてこようか?」 「いや……いいよ。折角ほとんど無傷で捕まえてきてくれたんだ。あんたも大変だったでしょ?」 「さしたる労力はない。気にするな」 そういう鳳凰は、さりげなく左腕を狂犬の視界の外へ置くように後ろへまわす。 無意識のうちであろう、その動作に、狂犬は心中で苦笑する。 「いいさ……やるよ」 狂犬は、その小さな手で、拘束されぐったりと横たわる女の体に触れる。 鳳凰が手際よく、その女の拘束を解くと同時に、狂犬は、呪いの術名をちいさく呟いた。 「真庭忍法『狂犬発動』」 発動と同時に、絶叫の二重奏が、周りの木々の葉を震わせる。 ゾロゾロと、幼女の体から、屈強な女武者の体へと、刺青が動く。 それらはまるで、女の体を地獄の黒縄で縛り付けるがごとく、体中へ隈なく刻まれてゆく。 ガクリ、と、幼女の体が崩れ落ちる。と、同時に、鳳凰の手刀が、その小さな体を真っ二つに裂いた。 ……その命を、確実に奪う為に。万が一にも、息を吹き返さない様に。 狂犬の目の前には、胴体を真っ二つにされた先ほどまでの己の体が横たわっている。 幼く、暖かく、柔らかだった体も、じきに冷たく、硬くなるのだろう。 ……いつもやっていた事だ。 鳳凰も狂犬も、今更良心など、痛みはしない。 しかしその時、一間ほど離れた藪の中から、小さく短い悲鳴が上がった。 「誰だ!?」 鋭い鳳凰の声に、藪がガサリと揺れ、小さな影が二つ飛び出した。 二つの影は、そのまま一目散に真庭の里の方へと逃げてゆく。 その背中に、狂犬は見覚えがあった。 「……あ奴らめ、たまに姿が見えぬと思っていたら、こんな所にまで出ていたのか……」 「知ってるの?」 「まぁな。次の「蝙蝠」と「川獺」の候補者だ。筋はいいのだが……後で叱っておかなければならんな」 「……そう」 狂犬は、気のなさそうな返事をすると、そのまま踵を返した。 「もう行くのか?」 「どうせあんたの事。必要な道具は全部、持ってきてるんでしょう? 忍者は信用よ。只でさえ遅れているのに、コレ以上任務が終わるのが遅れたら、依頼主が不審がるわ」 「………道具はコレだ」 「ありがと」 良心など……先ほどまで体を乗っ取っていた幼女の死など、狂犬は何も感じてはいなかった。 ただ、彼女は見たのだ。 それはこの新しい体の持ち主の卓越した視力が為したのか、はたまた彼女の見間違いかどうかは分からなかったが…… あの二人は、泣いていたのだ。 驚愕を体全体で表して、ソレが最も色濃く現れている瞳を潤ませていたのだ。 ………あの子達は、あたし達が友達を殺したと思っているだろうな……… 何の罪もない、ただ利用するだけ利用した幼女を殺した事よりも、これから殺しにいく何の恨みもない男を殺しにいく事よりも、あの二人を、自分が何よりも大切に思っている里の子を悲しませた事に胸が痛む。 それが、傍から見ればひどく滑稽で、馬鹿らしい痛みだということには、狂犬はとっくに気づいていた。 だからこそ、それを無視することも、出来る。 今、考えなければならないのは、任務の遅れを取り戻すことだけ……… 「――――ごめんね」 つい、口をついて出た言葉は、彼女と共に駆け抜ける風の中に消えていった。 狂犬さんは、トリブラのセスっぽい役割でいいと思います。正体は誰も知らないけど、真庭の里の人達は、誰かしら小さい頃に全身刺青だらけの少女と遊んだ記憶があるって感じ……なんちゃって。 鳳凰さんを出したのは、何となく。長い付き合い云々と言われていましたので……しかし気がつけば、うちのサイトの神降臨率が結構凄いことに(笑 因みにタイトルの元ネタは、黒縄地獄から。八大地獄の一つで、ここに落ちたら熱せられた鉄製の黒縄で縛られて焼けた鉄の斧で切り裂かれるらしいです。怖っ。 実はこの話、当初、相互記念に贈ろうと思い、書いていたんですが、先にいただいたものを見て、「こんな暗くて救いの無い話を送りつけて何が記念じゃぁぁぁ!!!」と思い直し(ってか、最初っから気づけ)没にしたのでした(笑えない… でも、折角半分くらいまで書いたのだからと、普通に仕上げてアップ。往生際が悪いですね。 この黒縄は、何時まで私をこの世に繋ぐのだろう |