蟷螂がその座敷に足を踏み入れた時、足の裏にじっとりと湿る感触を覚えた。 それはさながら、雨天の後日、まだ湿った土の上に誤って足袋のまま踏み入れた感触のようだ。 ただし、ここは屋内。たとえ外が土砂降りであろうが本来ならばこんな場所がぬれるはずがない。 おそらく最高級の藺草を惜しげなく使っているのだろう、座敷に敷き詰められている畳は、もう元の用途を果たせそうにない。 当然だ。ただの雨水ならまだしも、この多少の滑りも含まれた湿りの水源は、人体にあるのだから。 「おー、遅かったなぁ」 元の色をしている場所を探すほうが困難なほど、朱に染まった座敷の丁度中央に敷かれた布団の上に腰掛けていた人物は、きゃはきゃはと笑っていた。 その姿形、声でさえも、蟷螂が普段見知った彼ではなかったが、その笑い方に間違いはなかった。 「ん? 珍しいねぇ、蟷螂殿じゃぁねぇか」 「ぬしは全く……接待好きも程々にせんといつか命取りになるぞ」 「いいじゃぁねぇか。冥土の土産位、奮発してやったってさ」 なんせそいつの命ってやつを貰うんだからな、と、彼―蝙蝠は笑った。 蟷螂は不快そうに顔を顰めると、微かな水音を立てながら座敷の奥へと足を踏み入れた。 見た目よりも広い座敷の中には、数体の物言わぬ者達が転がっていて、それらがこの赤い海の水源なのだと嫌でも思い知らしめる。 そしてその中央。赤く赤く染まった布団の上に座った、美しい女郎―おそらく、この美貌の本来の持ち主はもうこの世から除名されているだろう―は蟷螂と目が会うと妖艶に笑った。 「ってかさ、何で今回の迎えが蟷螂殿な訳? 俺はてっきり同じ組の奴らが来ると思ってたんだけど」 「生憎今日はわたししか手が空いていなくてな。不服か?」 「いんや。別に。迎えに来てくれるんなら誰でもいいや」 そういうと蝙蝠は、顔を捏ねるようにして基の、いや、少なくとも蟷螂が見知った顔へとその美貌の女郎から作り変えていった。 彼の本来の顔など、蟷螂は覚えていない。おそらく幼いころに垣間見た事位はあるかもしれないが、そんな事、覚えているはずがない。 ひょっとしたら、今見ている顔のままだったかもしれないし、違うのかもしれない。もしかすると、この女の体こそ、蝙蝠の本来の姿なのかもしれない。 蝙蝠の本来の顔になど、蟷螂は特別興味はなかったが、こうして体が作り変えられていく様を目の前で見せ付けられる度にぼんやりと考えてしまうこと位ある。 当の本人は、体を完全に『元』のものに作り変えると、身に着けている半ば血に染まった女物の着物をピラピラと見せびらかすように持ち上げた。 「あ〜あ、コレ、高そうだったのによぉ。折角くれるって言ってたのに、コレじゃぁ売れねぇどころか、もう使えねぇなぁ」 「その男からか?」 「おう。この男がさっきの遊女にやろうとしていたベベさ。脱がせる為にな。「男が女に着物をやるのはそれを着た女を脱がせたいから」ってのは本当みたいだぜ?」 布団のすぐそばに転がる半裸の冷たい肉体を示しきゃはきゃはと笑う蝙蝠を、蟷螂はあきれたような面持ちで見ていた。 「で、脱がされて、薬を盛られて助けてくれと言う訳か?」 「順番が逆だな。薬盛られてから脱がされたのさ。ヤられる前に殺ったけどな」 「薬如きで動けなくなるなど、修行が足りん証拠だ」 「そんな事言うなよぉ〜。見積もりよりもキツイ奴だっただけさ。むしろ俺だったからこそ、脚が萎えただけで済んだんだって」 口を尖らせながらそういう相手を黙殺すると、蟷螂は蝙蝠の手をつかんで引き上げる。 そのまま荷物を担ぐような形で蝙蝠を担ぐと、踵を返して先ほど入ってきた戸口のほうへと足を踏み出した。 「もうちょっとマシな持ち方ねぇの?」という文句は、無視する。 「お〜い、聞いてんの? 俺は荷物じゃねぇぞ〜」 「生憎わたしには大の男を負ぶう趣味も抱きかかえる趣味もない。荷物と変わらんさ」 「そうかい。何なら、さっきの女になってやろうか? 胸があたっていや〜んみたいな幸運があるかもよ?」 「中身がぬしならお断りだ」 「お堅いねぇ〜蟷螂殿は。ほれ、好みの女、言ってみろよ。迎えにきてくれた礼にどんな注文も聞ける限りの範囲内で聞いてやるぜ?」 「そうか。では、『耳元で喋るな。煩い』」 「ちぇっ、硬すぎるぜ。朴念仁」 「ぬしが柔らかすぎるだけだろう。いろんな意味でな」 「ん? 褒め言葉で受け取っていいのか? それ」 「好きにしろ」 一歩踏み出す毎にピチャリと、足元で赤い海が波打った。 おそらく、得意の手裏剣砲で空けたのであろう、足元に転がる肉体に穿たれた風穴と、先ほどの半裸の亡骸とを、蟷螂は少し顧みて、軽く首を振った。 「何だよ。えらく機嫌悪ぃなぁ?」 「未遂とは言え、情事の後を見せ付けられて気分がいい訳ないだろう」 「きゃはきゃは。なぁに言ってやがんだよ、蟷螂殿ともあろう人が」 「何とでも言え」 「以外と初心なの?」 「置いて行くぞ」 「ひっでぇの」 「ぬしに言われたくはない」 「第一…」と、蟷螂は足元の物言わぬ骸を邪魔そうに蹴り飛ばしながら続けた。 「第一、わたしらが「酷い」のは今更だ」 蝙蝠は、その返答に一瞬虚を疲れたような表情をすると、次の瞬間にはきゃはきゃはと盛大な笑い声を上げた。 「確かにな」 そう、蝙蝠がつぶやいた時、五月蝿そうに眉を顰めていた蟷螂の足元で赤い池がパシャンと大きく波打った。 |