「無様だな」 冷たい声に、鳳凰は振り返った。 額からの出血で半分赤く染まった視界の中に、洋装で顔の上半分を仮面で隠した男が何時の間にやら映りこんでいた。 鳳凰は心の中で舌打ちをする。 油断をしたつもりなど、毛頭なかったはずなのに。 それでも今の己のこの状況を鑑みれば、そう取られてもなんら不思議はないのだから笑えない。 連れていた部下は死に、己自身もこの低落では、「無様」と言われても何も言い返すことができないだろう。 「……笑いに来たか…?」 「『不当』。私はそこまで暇ではない」 背後の声に、抑揚はない。 「姫さまの命の帰りだ。その道筋に、たまたま貴様が居ただけにすぎん」 「……そうか」 クスリ、と、鳳凰は苦笑したようだった。彼はそのまま視線を元に戻す。 普段の彼からしてみても精気と生気に欠けた微笑に、右衛門左衛門は微かに目を眇め、眉を上げた様だった。 無論、それらの変化は仮面によって隠されているため、本人にしか知りえぬものではあるが。 鳳凰の腕の中には、部下の亡骸があった。その体に、頭部は付いていない。 彼の頭部は、つい先ほど胴体と別れを告げ、三尺ほど離れた場所に石ころの様に転がっている。 地面は首が飛んだ際に撒き散らされ、今のなお流れ続ける血でじっとりした湿り気と、血液特有の滑り気、そして金物臭い臭気を発していた。 「……殺したか」 今度はすぐ背後から聞こえた声に鳳凰が気がついた時には、右衛門左衛門の手の中には鳳凰の長く垂らされた黒髪が収まっていた。 しまったと、己の短慮に気がついた時にはすでに遅く、鳳凰は髪を掴まれたまま強制的に立ち上がらされていた。 己の頭皮からブチブチと髪が抜ける音と、腕の中にあった部下の亡骸がゴトリと地面に落とされた音が、耳孔の中でやけに響いた気がした。 「貴様はまた、己が手で仲間を殺したか」 「………おぬしには関係なかろう」 毛髪を引かれ、強制的に曝け出された喉元に刃物の気配を感じ、鳳凰は一度目を閉じた。 本当に、まずい時にまずい相手と会ってしまった。 不意打ち待ち伏せには慣れていたはずだが、如何せん今回は雑魚は雑魚でも数が多すぎた。 肉体的にも精神的にも予想以上に消耗したこの体で、この男に背後を取られるとは。 喉元に刃さえ無ければ、そして己の背後を取った男がこの男で無ければ、盛大なため息を吐いていただろう。 喉元に当てられていた刃物がすぃっと下に下りる。肩口から袈裟懸け状に肉の中に滑り込む刃の感触。肉の繊維の一本一本が断ち切られる音が聞こえるような錯覚に陥るほど、ゆっくりゆっくり伸ばされる傷に、鳳凰は眉を顰める。 肩から腰まで一直線にゆっくりと線を引くかのように切ったその手で、右衛門左衛門は、鳳凰の血に塗れた手を取る。指先が口付けられるように口内に含まれると、ゾクリとした悪寒に似たものが鳳凰の脊髄を駆け上がった。 カチリと、爪が噛まれた音がしたかと思うと、取られていた手は、そのまま力任せに引かれる。 「――――っく…」 ブッ…と何かが千切れ取れる音の数瞬後、指先から一本の電流のような痛みが視界を一瞬白くする。 視界が回復した時、目の前に翳されるように取られたその手には、爪が一枚足りなかった。 「この手か? 次に取り替えるのは?」 「………」 「肩の腱でもやられたか? 力が入っていないぞ?」 これ見よがしに、目の前で振られる己の意思ではどうにも動かせない腕から、鳳凰は視線を逸らす。 再び指先が食まれる感触がすると、今度は立て続けに爪が剥ぎ取られる音が耳元で響く。 指先からの痺れるような痛みが手を振るわせる。 プッと、最後の爪が吐き出される音がすると、力任せに取られたままだった頭髪を引かれ、体勢を崩された。 よろけた体は、傍の木の幹に勢いよく叩きつけられ、荒い木の皮が、先ほど付けられた胸の傷をさらに抉るように擦り付けられる。 全身を襲う倦怠感は、身動きが取れないほど押さえつけられ、自由を奪われたこの状況を、すでに自分が切り抜けることを諦めてしまっているからか。 情けないな、と、自嘲の笑みが自然と口を吊り上げたと同時に、左手首に、冷たい刃が差し込まれる感覚がした。 ゾクリと背筋に嫌な感覚が駆けると同時に焼けるような痛みが脳天を突く。 刃は皮を突き抜け、肉を分け、骨を絶つと再び先ほどとは逆の順序で左腕と左手を強制的に別れさせた。 「――っ――」 「どうせ切り落とす腕なのだろう? 私がやっても一緒のはずだ」 息を呑むようなうめきを無視するように、右衛門左衛門は痛みのショックでブルブル震えている鳳凰の左腕に再び刃を差し込む。 皮を破る。肉を切り分ける。骨を絶つ。肉を切り分ける。皮を破る。 それを繰り返す。 繰り返す。繰り返す。繰り返す。 ボダボダと、赤い微温湯が傷口から溢れ出し、夜闇の中でヌラリとした光沢を帯びて地へと吸われてゆく。 「―く―――ぅ―――っ」 「仲間の命を奪ってまで付け替える腕だ。何をされても良いはずだろう」 「―――――っぐ――――っ」 反論がないのは、言われた意味とその真意が分かっているからか。 寸刻みにされている左腕から、白い骨が覗く。 痛みに耐えるようにかみ締められた唇の端から、一筋の血が滴り落ちる。 気が狂いそうな痛み。しかし、それは己自身の手でも幾度と無く繰り返されてきた痛みだった。 他人にも、そして、自分自身にも。 「………ッククク……」 うめきと共に漏れたのは、意外なことに、笑い声だった。 右衛門左衛門の手が止まる。 「……何がおかしい?」 「――っ別に……何も―――」 脂汗の浮いた顔で、鳳凰はニヤリと笑う。 力の無い笑み、しかし、その冷たい輝きを放つ瞳は変わらなくて。 相手を、はたまた自分を嘲る様に、口の端が釣りあがる。 それをしばし仮面に隠された顔で見ていた右衛門左衛門は、何時の間にやら動きを止めていた刃を鳳凰の左腕から引き抜いた。 ピッと散血が飛び、それに合わせる様に半分ほどの長さになった腕がビクンと揺れる。 押さえつけている手から、早めの鼓動と荒い息が伝わる、が、それでも、つりあがった頬は、変わらなくて。 その顔が、その笑みが、もう、捨てたはずの「何か」を、再び目の前に突き出しているようで…… 「……不快」 「―――っぁ―――」 先ほど引き抜いた刃を、再び傷口に突き入れる。 グチャグチャと掻き回す様に動かすと、口からは声にもならない呻きが漏れてくる。 押しつぶすかのように木の腹へと再び叩きつけられると、肺の中の空気が無理やり押し出されたかのような声が喉を震わせる。 「―っかはっ―――はっ――はははっ」 空気と共に押し出されたのは、哄笑、とも呼べるであろう、笑い声。 「――余裕が――無い、じゃ、ないか」 「……貴様が言うのか」 「あぁ………堕ちたものだな―――×××××」 ――ム・カ・シ・ノ・オ・マ・エ・ハ・モ・ッ・ト―― それを、右衛門左衛門が、最後まで聞く事はなかった。 鳳凰の体が、急に重量を増す。 ガクリと、何の前触れもなく崩れ落ちたその体を、右衛門左衛門は特に支えることもせずにそのまま重力に任せるように手放した。 ズルズルと足元へ堕ちてゆく鳳凰を、表情の読めない仮面の顔で見送る。 左半身を朱に染めた鳳凰が、己の血溜りの中へと完全に沈むと微かな水音が立った。 おそらく、血を流しすぎたのだろう。そのままピクリとも動かない。 右衛門左衛門は足で鳳凰の体を仰向けにすると、その場に跪き、意外なほど白く細い首に、ゆっくりと五指をからめた。 あれだけ血を流したにも関わらず、右衛門左衛門の掌に微かな生命の証である脈がその存在を主張している。 脂汗がじっとりと手を濡らし、先ほどまでの行為で付着していた血液と交じり合い、ヌルリとすべる。 このまま絞め殺すのは、簡単だった。(当然だ。意識の無い相手に抵抗などありはしない) 実際、右衛門左衛門は、それを実行に移そうとしていた。 しかし、彼はそれ以上手に力を込める事無く、鳳凰の首から手を離した。 「…………」 代わりに右衛門左衛門は、鳳凰の長い黒髪を根元から掴むと、そのまま視線を合わせるように鳳凰の顔を引き上げた。 血と汗と泥に塗れたその顔は、当然の事ながら血の気がない。 微かに開かれ、乾いた血がこびり付いている唇の隙間から、細い呼吸音が聞こえる。 その唇に、右衛門左衛門は吸い込まれるように己の唇を落とした。 同時に、噛み切るように歯を立てる。 ツゥっと新たに流れた血を追うように舌を這わせ、脈打つ首筋にもう一度、今度は先ほどより強く激しく歯を立てた。 ガリリと鳴った音と同時に意識の無いからだが一瞬揺れる。 その血を更に伝い下りると、行為のさなか付けた袈裟懸け状の胸の傷にたどり着く。 最後に、丁度心臓の上にあたる部分、その部分の傷口に舌を潜らせる様に口付けると(それはまるで、心臓を食らうかのように)右衛門左衛門は掴んでいた黒髪を離した。 足元で響いた湿った土の音と共に、何処かで、鳳凰の名を呼ぶ声が聞こえる。 恐らく、彼を探しにきたのだろう、その声は、徐々にではあるが、この場へと近づいてくるようだった。 血で汚れた己の口周りを袖で拭い、再び地に落ちた鳳凰の傍らへと血混じりの唾液を吐き出す。 「……………………」 その唇が、微かに言葉を紡いだ。 下らない、とでも言ったのだろうか? 兎にも角にも、それは確かに紡ぎだされた。 その呟きは、血生臭い現場に滑稽なほど不釣合いな、爽やかともいえる夜風に攫われていった。 手の上なら尊敬 額の上なら友情 頬の上なら厚情 唇の上なら愛情 閉じた目の上なら憧憬 掌の上なら懇願 腕と首なら欲望 さてその他は………… |