涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める 旧約聖書 詩編 42章 2節 ジジジジ 蝋燭の燃える音だけが嫌に響く部屋の中。 真庭鳳凰は、所在無く月を見ていた。 月光と蝋燭の炎だけが唯一の光源の部屋のトロリとした闇の中、忍び装束から部屋着に着替え、長く伸ばした黒髪を普段のように纏める事無くそのままに、深窓の窓枠に頬杖をついて、ただただぼんやりと、月を見上げていた。 夜はもうずいぶん更けている。昼夜逆転の仕事柄、まだ起きているものは居はするるだろうが、辺りは物音一つ、しなかった。 そんな中、ふぅ……と、大きく息が吐かれる。 体内の空気を全て吐き出すかのような、長い長い吐息の後、鳳凰は呆れた面持ちでポツリと独り言のように呟いた。 「………何時までそうしているつもりだ? 蝙蝠」 「あ、やっぱバレてた?」 窓の外からヒョッコリと顔を出した蝙蝠は、裂けた大きな口からチロリと真っ赤な舌を出し、笑った。 「何時ごろ気づいたんだ? 一応気配は消してたはずなんだけどな」 「最初からだ。気配など、ここに着いてから消しても意味が無かろう」 「きゃはきゃは。そりゃそうか」 甲高いいつもの声で笑う蝙蝠を、鳳凰は呆れ半分な面持ちで見る。 蝙蝠の服装は、いつものあの忍び装束で、両の手に嵌められた手袋は、カピカピに乾いた血がこびり付いていた。 彼はここ数日、件の奇策士からの依頼でとある人物の暗殺に出向いていたから、その時の返り血だろう。 普段着に着替えていない所を見ると、どうやら、仕事を終えたその足でここに来たらしい。 「…予定していた日時より、少し遅かったな」 「あぁ。あんまりにも楽すぎたんで、帰り道ちょっとのんびりしてたらさ、遅れちまった」 でも、一応仕事は期限内に済ませたぜ? と言うと、蝙蝠は鳳凰が空けた窓の枠に飛び乗った。 部屋の方へと背中から倒れこむ様な不安定な格好のまま、逆さに鳳凰と顔を付き合わせる。 鼻と鼻とが触れ合いそうな距離まで一気に近づいた蝙蝠の顔には、小さな赤黒い斑模様が所々についていた。 鉄錆の匂いが、その時吹き込んできた夜風と共に、部屋の中へと流れ込んだ。 「……川獺達が、心配していたぞ」 「ん〜?」 「おぬしが帰ってこないとな」 「きゃはきゃは。あいつららしいな……あんたも心配した?」 「任務が予定通りに進むまぬ事もあるだろう。そこまで心配するような事ではないと言っておいてやった」 「…………ふぅん」 少し面白くなさそうな顔をすると、蝙蝠は、尻と手だけで支えていた不安定な格好を急に崩した。 彼の体は重力に任せるまま窓から部屋の中、それも、鳳凰の組んだ胡坐の上へと落ちる。 鳳凰が少し痛そうに顰めた顔を、今度は下から見上げるように見る。 その表情は、なんとも表現しがたい。 「……心配して欲しかったのか?」 「心配されないよりはな」 子供がそうするように、唇を尖らせる蝙蝠に、鳳凰は苦笑を返す。 丁度、膝枕をしてやっているようなこの格好を、もし川獺や白鷺、喰鮫にでも見られたら、色々五月蝿く言ってくるのだろうなと、他人の色恋事には少し目聡い彼の苦笑は、そういった意味も入っていただろうが、生憎蝙蝠はそこまで看過できない。 よしよしと頭を撫でるようにかき混ぜてやると、少し複雑そうな笑みを蝙蝠は浮かべた。 「あやつらが大げさすぎていただけだ。我とて、何も思わなかった訳ではない」 「…マジ? それってマジ??」 「嘘をついてどうする」 「何を思ったんだ?」 「聞いてどうする?」 「知りたいだけだっての」 「ふむ…………『あぁ、大方得意の接待でも大盤振る舞いしているのだろうな』…………と、思った」 その答えに、蝙蝠はがっくりと肩を落とす。 「……結局、心配してねぇじゃん……ひっでぇの」 「何を言う。おぬしならこの程度の任務、楽にこなせるだろうとの確信の上での考えだ。おぬしの情報収集能力なら、あの程度の人物の事を調べるなど朝飯前であろうし、そんな人物に遅れを取るようなおぬしではあるまい。何処に心配する要素があると言うのだ」 「………けっ」 蝙蝠は、すこし頬を膨らませて頭は鳳凰の膝に乗せたまま、ゴロリと背中を向けた。 その耳は、蝋燭の明かり以外の要素でうっすらと赤くなっていたが、鳳凰は気がつかない。 「変な奴だな。おぬしは」 「悪かったな」 「何故我の考えなど気になるのだ。他人の考えを気にするようなおぬしではないだろう?」 「………」 「それに妙と言えば、何故、おぬしはこんな夜更けに、しかも任務帰りに直接こんな所に来たのだ?」 「…………わりぃかよ」 「悪くは無い」 「………………んじゃ、迷惑か?」 「それも違う。ただ、妙だと言っているのだ」 「………いーだろ、別に」 「……それもそうか」 「…………」 そこから暫く、沈黙が続いた。 開け放たれた窓からは、ササァ…と言う木の葉擦れの音と共に、少し肌寒い夜風が吹き込む。 月明かりはただ冷たく差込み、蝋燭の炎は暖かそうな光を放ち、それらが届かぬ場所には、ただ虚無が如き闇が沈殿している。 「居心地がいいんだよ」 ややあって、蝙蝠はそう、口を開いた。 半ば呆けていたらしい鳳凰は、二、三度ゆっくりと瞬きをすると、「ん?」と小さく声を漏らして小首を傾げる。 相変わらず背中を向けたままの蝙蝠は、そんな鳳凰の反応を無視するかのように言葉をさらに紡ぐ。 「そりゃあ……例えば川獺の事は親友だと思ってるし、白鷺や喰鮫の変態とも一緒にだべってたら楽しいとは思ってるよ? 人鳥クンはかわいーし、他の連中も、いい奴…ではないか。まあ、とりあえず俺は好きだ」 そこまでほぼ一息で言い切ると、蝙蝠はフゥ、と、小さく息を漏らした。 「でもな、何か違うんだよな。あいつらと一緒に居ると」 「―――つまり、どういうことだ?」 「あんたと一緒に居るほうが、あいつらと居るより居心地がいい、って事。まぁ有体に言うと、安心する? 安眠できる? ってか俺安泰? みたいな」 そこまで言うと、蝙蝠は耳を益々赤くして、今度は鳳凰の膝に顔を埋める様に寝返りを打ち、「コレ以上言わせんじゃねーよ」と付け足した。 柄にもなく照れているらしい蝙蝠に、しばし鳳凰は面を食らった顔で目を瞬かせていたが、ややあって、見るものによっては悲しげにも自嘲的にも見えるであろう、微笑を浮かべた。 その微笑は、蝙蝠の視界に入ることはない。蝙蝠が知覚したのは、ポツリと落とされた「そうか」と言う優しげな呟きと、ポンポンと一定の調子で背中を撫でるように叩かれる感触だけだった。 |